1.契約文化と仁義文化

組織コミットメントというキーワードについて研究を漁っていた時に、面白い結果を見つけました。ちなみに組織コミットメントというのは「個人が抱く組織に対する愛着や一体感」のことです。

この組織コミットメントを、日本とアメリカで国際比較してみた研究です。

結果は、組織コミットメントを測るほぼすべての項目において、日本はアメリカよりも低かったというもの。最初、契約社会でジョブ型雇用のアメリカの方が、メンバーシップ型雇用の日本よりも低いんじゃないの!?と思いました。

ただこの研究に対しての批判的考察として、日本人の研究者がこのように言っています。

・同調査を、最新の統計手法に基づいて翻訳等価性を検証した。つまり、英語の質問文と日本語の質問文で本当に同じニュアンスで表現できているのか、を確認してみた。

・その結果、そもそも、日本語版より英語版の方が高い得点を示す傾向があった。

・したがって、単純に日米間の結果を、得点の絶対値で比較するのはもっと慎重に考えないといけない。

ということで、これらの論文からは日本の方がアメリカよりも組織コミットメントが低いのか高いのか、ということについては、結論分からなかったのですが、この論文を読んだことをきっかけにふと思ったことがあります。

アメリカは契約文化で、日本は仁義文化。

こんな風によく表現されますが、それぞれの文化は、どのように生まれたのか。

この文化差から両者の労働観の違いを考えてみたいと思います。

2.神の時代から異なる文化

アメリカは契約社会だとよく言われます。アメリカをはじめとした欧米社会においては、おそらく古くは、古代から続くキリスト教社会における神と人間の契約関係。中世時代の封建社会での騎士と領主の契約関係など、こういった流れから現代のビジネス社会にまで契約文化が脈々と根付いてきたのだと思います。

自分が提供することと相手から提供されることを明確に決めておいて、二者間の関係は、その履行がなされる限り続く。

旧約聖書のアダムとイブが、善悪を知る樹の実を食べて、楽園を追放されたのも神との契約(約束)を破った罰によってであり、契約履行-不履行の考え方はこの時からすでに始まっていました。キリスト教社会において、これまでの宗派間のいざこざは、常に聖書の解釈の違い(≒契約内容の解釈の違い)が理由であるようにも思います。

キリスト教に入信するためには、誰でも洗礼を受ける必要がありますが、これもイエス・キリストに信仰の表明を誓うという加入儀礼(イニシエーション)です。本来、契約には「始まり」と「終わり」が必ずあり、加入儀礼はこの始まりを意味するものだとも言えます。

一方で、例えば日本の神道は、“こういう儀式を経たら入信したとみなす”といった加入儀礼がありません。

またそもそも日本は、神は一人ではありません。八百万の神々がそこら中にいます。

この八百万の神々が、個々の人間とやることが明確化した個別業務契約を結んでその範囲だけで神事(神様の仕事)をしているわけではありませんし、彼らは結構気まぐれで、人間にとって良いことだけでなく、時に気分でいたずらとかもやらかします。

また出雲大社には全国の神様が1年に1度(旧暦の10月)集まって、来年の人々の縁や運を会議して決めます。旧暦の10月を全国では神無月、出雲では神在月と呼ぶのは、神様が出雲出張している月だからです。

私も島根に2か月に1度出張にいっていましたが、神様も同じでした。

こんな風に、普段の持ち場を離れて長期出張しながら役割以外の仕事も柔軟にこなすあたり総合職っぽいところです。

そんな日本では、契約という感覚は薄く、「私はここからここまでをやる」という行動や「それをいつまでにやる」といった期限は規定されておらず、むしろ曖昧な気がします。

むしろ領主に対しては「自分のすべてを預け、保護してもらう代わりに、全霊でその義理と恩に報いる」感覚で働いていることが多いのではないでしょうか。これを仁義文化とここで勝手に呼んでおきます。

3. 両者をベースにした労働観の違い

労働観の違いでいえば、日本とアメリカではどちらも「労働契約」と呼びますが、そのニュアンスは大きく異なっています。

例えばアメリカで労働者が仕事に就く際は「私の仕事はここからここまで」という職務記述書が用意され、経営者は「この仕事をしている限り、あなたはこの給料です」と仕事の価値を金額で明確に示します。労働者と経営者は契約においてのみつながっているという関係性は、日本から見れば少しドライな感じがします。しかし、それによって、労働者は、何もやることがないのになんとなく社内の重い空気を感じ取ってサービス残業をするなんてことはないでしょうし、経営者も業績不振で抱えられなくなった人員を契約に基づいて比較的ドライにレイオフできます(沈みゆく船で、仲間だからみんな一緒に沈もう!とはならない)。

かたや、日本においては、仁義にもとづいて会社や経営者に尽忠するため、言われた通りに何でもやります。引っ越し・転勤ありの人事異動が本人の承諾なしに決定されるのはよく考えてみるとすごいことなのですが(まさに社員の全生活を預けているといえます)、これに代表されるように、私たちは仕事に就くのではなく、会社に就いています。

その代わり、会社はその人の生活を全般的に介入・支援します。本来仕事には全く関係ないのに、家族が何人いるからという理由で扶養手当がつくのも、生活全般をコントロールする代わりに何でも世話するよ、という経営の意思の現れです。

よく新卒採用責任者が、内定者の親御さんに「お子様を責任もってお預かりします」という言葉にもそれが表れています。

今回は文化と労働観の違いがわかりやすいよう、アメリカと日本の例を少し極端に書いてみましたが、契約文化と仁義文化で、どちらが良いかということは当然ながらなく、またその境界も曖昧になってきています。

ただ、このように自国と他国の文化の違いとその成り立ちにまで目を広げてみると、今の私たちが当然としている働き方がより客観視できて面白いかもしれません。

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安藤健

元々、臨床心理学を学んでおり、児童心理治療施設(虐待などで心に傷を負った子ども達の心理支援をする施設)にて、長らくインターンをしていました。 ここは、まさに心理学を「病の治癒」に活かす現場でした。そこから一転、心理学を「人の能力開発」へ活かしたいと感じ、人事という世界に飛び込んでみました。 現在では、こういった心理学の観点なども踏まえつつ、人事・マネジメント系コラムの連載をしています。

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