芳賀 巧
高校野球は誰のためにあるのか
小学生から大学の入学まで、ろくに勉強もせず、ずっと野球をしていた。なんだかんだ、10年以上野球をしてきたことになる。色々な人に、大学入ってすぐ野球辞めたの?と聞かれ、毎回「そうやで、プリ◯ン・ブレイクや!」と場を盛り上げるような表現を多用してきたが、結局は自分の実力のなさに気づき、ただ逃げ出しただけ。
最後は自分に絶望して辞めた野球だが、未だに社会人野球の選手として活躍している友人や、プロの世界で頑張っている同い年の人たちを、自分がプレイヤーだったころよりも素直に応援する事ができているような気がする。
そんな僕も、高校球児として野球をしていた。日本における高校野球の扱いは世界の学生スポーツと比較しても異常だと思っており、今年のコロナによる春夏の甲子園大会の中止は様々なメディアに取り上げられ、特番まで組まれる騒ぎだった。そういった、高校野球に対する異常な熱が、選手たちに勘違い(野球が上手いこと=人間的にもすごい、という価値観)を起こさせ、ろくに人と会話もしないという選手を僕は何人か見てきたこともあり、あまり野球をしてきた人と積極的に交流することはないのだが、野球に対しては色々なことを学ばせてもらったと感じているので、感謝はしている。(すみません、偉そうな発言ですが、本当に極々一部の僕が出会った人を指しています。いい人のほうが多いです)
数年前に、SNSで「応援がうるさくて、野球に集中できない」という投稿を見かけて、発言者と会話をしたことがある。
「応援あってこその、高校野球じゃないですか?」
「主役は選手で、選手のための高校野球なんです。応援を聞きに来る人たちだけで席が埋まってしまうのはおかしい」
「僕は試合に出る立場でしたが、あんまり主役とは思ってなかったですね。。(だから負けたのかもしれませんが。。)」
こんな会話をした記憶がある。
今年こそ観に行っていないが、夏の東京予選は毎年のように観に行っている。そして、なんだかわからないけど、高校野球を観ると大体泣く(だから、基本的に一人で観に行く)。それは、必死にプレーする選手たち「だけ」に心を動かされているわけではなく、吹奏楽部やチアリーダーの人たちも含めた、「一体感」みたいなものなのだと思う。そのような現象が自分に起こることもあり、「選手のための高校野球」という発言に妙に引っかかりを覚えた。
もちろん、多くの人からの応援を「背負う」選手たちがいるからこそ、成り立っているということもわかるが、あの炎天下の中、踊るチアリーダーを見ていると、「なんのために踊っているのかな。。好きな人がプレーしているのかな。。」とか「可愛い服を着て、踊っているのは気持ちいいだろうな。。」と色々な思いが頭に巡ってくる(決してやらしい気持ちではない)。理由は色々あれど、結局はみんな、選手たちに「頑張ってほしい」という健気な気持ちで踊っているからこそ、僕は一体感を感じ、心を動かされているのではないかと思う。
そして、おそらく僕と同じような視点で高校野球を見ている「高校野球ファン」もいて、だからこそ、熱狂的な人気のある高校野球という文化が今だに根強く日本に残っているのではないだろうか。
今回の甲子園大会の中止によって、当然そこに向かって努力をしてきた選手たちが一番残念な気持ちになっているのは間違いないだろうが、「応援する」ということに対して準備をしてきた高校生もたくさんいるだろうし、選手と同じくらい残念な思いを抱えている高校生が、選手と同じくらいの量いるのではないかとすら思う。
また僕の話に戻って恐縮だが、僕の最後の夏の大会は不完全燃焼で終わってしまった。というよりも、僕自身が勝手にふてくされて、終わらせてしまった。そんな状態だったので、最後の試合が終わったときにも、涙は全く出てこず、「あー、終わったわ」みたいな状況だった。だが、グラウンドから引き上げて、スタンドで応援してくれていた同級生から「ありがとう」と言われたときに、涙が止まらなかった。立場が人を育てるという言葉があるが、それはあくまで別の(客観的に見ると自分より下の)立場の人とのやり取りがあってこそ、成立する言葉であって、役割分担の話をしているのだな、とその時気づくことができた。(その同級生は未だにいい友達で、結婚式も来てもらった)
今年は本当に高校生にとっては残念な形になってしまったが、高校野球は決して球児だけのものではない、とやはり僕は思う。応援する準備を進めていた高校生達にも、僕みたいにふてくされるのではなく、健気な気持ちを持ち続けてほしいと、高校球児の頃に色々な人から応援してもらい、力をもらったおじさんは心から願っている。