芳賀 巧
聖帝サウザーの生き様から考える「愛」がもたらすもの
漫画「北斗の拳」に出てくるキャラクター「サウザー」をご存知だろうか。
僕は正直ドンピシャの世代ではないので、北斗の拳に関する知識は”にわかレベル”なのだが、学生時代パチンコ・パチスロに勤しむ生活を送っていたことから知識を少しばかり得ていた。
北斗の拳は、簡単に言うと一子相伝の力を前提に「兄弟喧嘩」をしているようなストーリーになっているのだが、その過程の中で強敵(とも)と呼ばれるライバルたちが数多く出てくることで、彼らともしのぎを削る戦いを繰り広げ、共に成長をしていくことも本作の魅力だと思う。(ただし、友情・努力・勝利の価値観で構成された漫画を読むことは個人的にパワーを要するので得意ではなく、本作はしっかりと読み込めていないのだが…)
そのライバルの一人が「サウザー」というキャラクターである。
心臓などが通常とは逆に配置されている、いわゆる内臓逆位のキャラクターであることも知られているが、彼は「愛深き故に愛を棄てた男」であると言われており、その点が非常に魅力的であると感じている。
詳しくはネットなどでご覧いただければと思うのだが、成長の過程で愛する人(お世話になった師匠)を結果的に自分の手で殺めてしまったことから深い悲しみを背負い、「こんなに悲しいのなら、苦しいのなら、愛などいらぬ」と、冷酷な人間として人生を歩むことを決めた男なのだ。
話は変わるが、「ストレスランキング」と呼ばれる、人がどのような現象からどれだけ大きなストレスを受けるか、ということをランキング化しているものによると、配偶者や家族、親しい友人などの身近な人物の死に関する項目が上位を締めていることから、サウザーのように突然冷酷になってしまうほどの変化が起こっても不思議はないかもしれない。だがしかし、愛する対象が失われることで結果的に最も強く「愛」がもたらすものは、果たして深い悲しみや苦しみなのだろうか。
エーリッヒ・フロムの名著「愛するということ」によれば、「愛とは、何よりも与えることであり、もらうことではない」である。それを前提に考えると、サウザーの愛は「自分が相手(師匠)に与える(還元する)前に消失してしまった愛」とも捉えることができ、その結果として深い悲しみだけが残ってしまったのだと考えられる。
つまり、「自分が相手に何かを与えられなかった愛」というのは、愛する対象が失われた際には結果的に悲しみや苦しみをより強く生み出してしまうと言えるのではないだろうか。
サウザーは最終的に北斗の拳の主人公であるケンシロウに敗れ、「もう一度ぬくもりを…」と涙を流しながら師匠の亡骸と共に朽ちていくことで、愛=ぬくもりであったことを思い出すのだが、やはりここでも「ぬくもり」というやや受動的な愛の側面が大きい印象がある。
相手から愛されることで「ぬくもり」を感じられる一方、自分が相手に対して与えられなかった愛、特に自分が受けた愛以上のものを相手に還元できなかった(と感じてしまう)ことが最も苦しく、辛く、悲しみを生み出す要因となってしまうという事をサウザーが生き様で教えてくれているのかもしれない。