1.合理的な○○とはなにか

組織や人事を考える仕事をしていると、よく「合理性」という言葉に当たります。

合理的な組織を作りたい。
合理的な採用をしたい。
合理的な育成をしたい。
合理的な配置をしたい。
合理的な評価報酬制度を作りたい。などなど。

営利組織であれば、あらゆる側面で合理性の追求は当然のように言われます。
例えば、ある事業において、大量の余剰在庫を長い間抱えていることは、生産・流通・販売の流れとして合理的ではないとされます。また、違う部署にも関わらず同じ規格・製造ラインで作ることができるようなプロダクトを製造しており、かつ双方ともターゲットにしている市場も同じである、ということなども事業遂行上の合理性に欠けると判断されます。
組織の面では、社員の配置で人的リソースをダブつかせてしまっていることや、余剰人員を抱えて遊んでいる人を作ってしまっているような状態は合理性に欠けるとしばしば言われます。
しかし、これらの状況は本当に合理的でないという結果でしょうか。特に組織の面において、例えば人員配置でリソースがダブついていることは、“本当にいついかなる時”でも合理的ではないのでしょうか。
私は以前、組織に関わる中で、度々このことを考えてきました。

2.組織・人事を考えるうえでの合理性

組織と合理性と言えば、ウェーバーの「官僚制」を真っ先に思い浮かべます。
ウェーバーのいう官僚組織とは、「合理的な志向をもって制定された諸規則によって、またその範囲内で命令が行われ服従がなされる組織形態」であり、近代において最も理想的であるとされています。この最たる組織が、軍隊組織であると言われています。明確な分業、規則化、役割の階層化、文書化。こういった特徴を持つ官僚組織は、最も合理的であると言われているわけです。
ちなみに、ウェーバーは、近代では経済の世界だけでなく、教育や行政、司法、ひいては他の生活領域からすれば一見非合理に見える宗教的な領域にまで合理化が進んでいると言っていたそうです。
なんだが、ここまで合理化、合理化、といわれると息が詰まる感じがしてきますが、それは合理性という言葉が「効率性を究極的に追及したもの」と捉えられ、そこに余裕、あそび、間隙がまったく感じられないからでしょうか。
この合理性の考え方について、ふと考えさせられるエピソードがありました。

3.広がる合理性の輪

以前、よく当社の社員が集うスナックで、社長と私でこんな話をした時のことです。

「ふつう、命が危険にさらされている状況だと、何とかして生き延びるために最適な選択をしようとしますよね。あらゆる生物はその命を継続させるために常に動機づけられているというか。危機的な状況だと自分が死なないためにあらゆる手段を講じようとしてそれが合理的な選択だと言われたりします。
でも、逆に、人や動物とか他の生き物もそうかもしれませんが、危険な状況で親が子どもをかばって自分が犠牲になる、なんてこともよく聞きます。カマキリのオスはメスに自分の体を食べさせるなんてこともあるらしいですし。これってそもそもどうして何でしょうね。だって、生物が自分の命を継続させるために動機づけられているのが生命の原理原則だとしたら、その行動は矛盾していて、合理的とは言えないじゃないですか。」

という私の話に対して、社長がこう言っていました。

「合理をどの範囲で捉えるかによるんじゃないかな。確かに、自分の生命を維持させるのはその個体にとっては合理的だけど、親が子どもをかばうことは血統(の存続)としての合理で、カマキリは種(の存続)としての合理に基づいた行動なのでは?」

個人にとっての合理、組織にとっての合理、社会にとっての合理、生物の種にとって合理。
確かに、生物の自己犠牲という行動をそういう理屈だと考えると、合理性にはステークホルダー(利害関係者)の輪のようなイメージで、『いつ、何にとっての合理性か』という問題が常についてくるように感じます。そしてこれは、人が集まってできている組織も同じではないでしょうか。

4.何に対しての合理性か

「合理」という言葉の意味で考えると、「理」に「合っている」さまのことを指しています。この「理」というのは、道理や論理のことで、道理というのは筋道が通っていること。ということは筋道の先に、そうあるべき姿(ゴール:目的)がないといけない。
合理的だとする名のもとには、意識的・無意識的にかかわらず、その目的が存在します。そしてこのゴールへの最短距離(道筋)を取ることを合理的であるというのかもしれません。『いつ、何にとっての合理性か』とはまさにそういうことであり、常にこれを念頭において、組織における合理性を追求しなければ、組織変革は上手くいかないかもしれません。
また、組織を変えていく際には、特に、この認識を当事者同士で擦り合わせておかないと、お互いの考える合理性の“先”が合っていないため、必ず変革途中で壁にぶつかるように感じます。冒頭に挙げた、人員配置でリソースがダブついていることは、本当に合理的ではないのか、という問題について、最後に一つ例を挙げます。
当社では、コンサルタント見習いは初めのうち、ベテランのコンサルタントに付いてプロジェクトへ参加します。いわゆるOJTとして、プレゼンテーションの方法からコンサルティングペーパーの作り方、分析の観点・方法などを経験を通して身に着けていきます。
しかし、利益率の観点からいけば、これは当然ダブルコストになってしまいます。ベテランのコンサルタントは、本来一人でもプロジェクトを完遂できるため、その人件費のみコストとしてかかるほうが、そのプロジェクトの利益率は高くなるからです。
こういった場合、会社としては、将来その見習いコンサルタントがベテランとして一人立ちできる可能性にかけて、現在は「ダブルコスト」という名の教育投資をしているという形になります。
組織や人事を考える上では、この「いつ、何にとっての合理性か」を常に考えて、組織のかじ取りをしていかなければならないのかもしれません。

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安藤健

元々、臨床心理学を学んでおり、児童心理治療施設(虐待などで心に傷を負った子ども達の心理支援をする施設)にて、長らくインターンをしていました。 ここは、まさに心理学を「病の治癒」に活かす現場でした。そこから一転、心理学を「人の能力開発」へ活かしたいと感じ、人事という世界に飛び込んでみました。 現在では、こういった心理学の観点なども踏まえつつ、人事・マネジメント系コラムの連載をしています。

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